読書開始 2025/1/20
読書終了 2025/3/2
2025/1/21
今日読んだのはアドラー心理学は【目的論】という事。
目的論によると何かの目的の為に人は行動している。という事。
自分で選択した結果が今の自分を作っている・・・
だからこそライフスタイルを自分で選択しなおせばやり直すことができる。
2025/1/22
58P〜73P
人の悩みは全て対人関係に関わるもの。という部分はなるほどな〜と思いました。
一見内面的な悩みと思える「低身長」も他社からどう見られるのか?という部分を気にしている。だから人間関係に関わるもの。言われてみれば確かにそうやな。と納得してしまいました。
よく言葉にしている「劣等感」も本書では成長を促す促進剤的なもので必ずしも悪いものではなはい。
他者との比較の中で生まれた主観的なものである。と。
客観的事実に基づく「劣等性」と主観的な解釈である「劣等感」を混同してはいけません。
ここでいう低身長について自分がどのように意味づけをするかによって「劣等感」は長所になると書いていました。
主観のいいところは自分で選択可能だと言う事。
つまりは少し前に読んだ「ライフスタイル」の選択にもつながるんだと。
客観的事実は変えることはできないが、主観的な解釈については如何様にもとらえることができる。
そして人は主観的な世界の住人である。
「劣等感とは」自らの価値判断に関わる言葉。では価値とは?
価値とは社会的な文脈の上で成立しているもので、ダイヤモンドの価値も、1ドル紙幣の価値も客観としての価値ではない。と・・・
この世界に私以外の誰も存在しなければ、1ドル紙幣は暖炉にくべて、鼻紙に使うかも知れません。
つまり、価値の問題も最終的には対人関係の悩みであると。
2025/1/27
82〜94P
権力争い→復讐となれば、当事者同士での解決はほぼ不可能になる。
怒りとはコミニュケーションの一形態であり、怒りを使わないコミニュケーションは可能。
怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外のコミニュケーションツールがある事を知らない。
権力争いについても、いくら自分が正しいと思っていても、それを理由に相手を避難しないように。多くの人が陥る対人関係の罠。
私は正しい。相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまう。
2025/1/28
93〜102
謝りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りることはいずれも「負け」ではない。
相手を嫌いになるのは、自分の目的が変わっただけで、相手は何も変わってはいない。
人はその気になれば相手の欠点や短所などいくらでも見つけ出すことができる。
さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して「人生の嘘」と呼ぶ。
2025/1/30
120〜
子供が窮地に陥った時素直に親に相談しようと思えるか、普段からそれだけの信頼関係を築けているか。
相手のことを信じること。これはあなたの課題です。しかし、あなたの期待や、信頼に対して相手がどう動くかは、他社の課題。そこを線引きしないまま、自分の希望を押し付けると、たちまちストーカー的な「介入」になってしまう。
たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。アドラーの語る「愛のタスク」にはそこまでの問いかけが含まれている。
「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知る。他社の課題は切り捨てる。
自分でどうすることもできないことまで、自分のことのように考えることは、自分の人生を重くする。と言うことでいいのかな?
自分の信じる最善の道を選ぶこと。その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他社の課題であって、あなたにはどうにもできないい話です。って買いていますし。
会社の対人関係に悩んでいる人がいたとします。
頑張っても認めてくれず、話もまともに聞いてくれない。
しかし、その上司から【認めてもらう】ことは、最優先で考えるべき【仕事】でしょうか?仕事は社内の人間から気に入られることではないはずです。
上司が理不尽な理由によって嫌っているのだとすればもう、こちらからすり寄る必要などないのです。
でも、直属の上司から疎まれていては、仕事になりません。
これもアドラーのいう「人生の嘘」(さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して使う)なのです。
わたしの仕事がうまくいかないのはあの上司のせい。そう語る人は「うまくいかない仕事」への口実として、上司の存在を持ち出している。
2025/1/31
126〜138
対人関係における「しがらみ」は、従来的な方法で解きほぐすのではなく、なにか全く新しい手段で断ち切らなければならない。
人が絆と思っているのは「見返り?」
相手の好意を踏みにじると考えるのは見返りに縛られた発想だから?
対人関係のベースに「見返り」があると自分はこんなに与えたのだからあなたもこれだけ返してくれ。という気持ちが湧き上がってきます。これは課題の分離とはかけ離れた発想となる。
「困難に直面することを教えられなかった子供達はあらゆる困難を避けようとする」
自分の人生を他社の期待を満たすように生きることは、楽。自分の人生を他人任せにしているのだから。
他者からの承認を選ぶのか、それとも承認なき自由の道を選ぶのか。大きな問題。
他社の望みを叶えるように生きること。確かに道標になるかもしれないが非常に不自由な生き方となる。
承認欲求という言葉を使っているが、要するに誰からも嫌われたくないのでしょう。
誰からも嫌われないようにするには、どうすればいいか?常に他社の顔色を窺いながら、あらゆる他社に忠誠を誓うことです。
2025/2/4
138〜141
全ての人から嫌われたくないから全ての人と「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けたりしてしまう。しかしその嘘は程なくして発覚してしまう。そして信用を失い、自らの人生をより苦しいものにしてしまう。嘘をつき続けるストレスも想像を絶する。
他社の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方。
だからといって自己中心的に生きるのではない。他社の課題に介入することこそ、自己中心的な発想。
人は「誰からも嫌われたくない」「わざわざ嫌われたいと願う人間など、どこにもいない」とはいえ、自らの努力と関係なく、自分のことを嫌う人もいる。
他社から嫌われたくないと思うこと。これは人間にとって、極めて自然な要望であり、衝動。近代哲学の巨人、カントはそうした欲望のことを「傾向性」と呼ぶ。
「傾向性」とは本能的な欲望、衝動的な欲望ということ。
そうした傾向性のおもむくまま、欲望や衝動の赴くまま生きること、坂道を転がる石のように生きることが「自由」なのかというとそれは違う。本当の自由とは転がる自分を下から押し上げていくような態度。
われわれは石ころではなく、傾向性に抗うことができる存在。転がる自分を停止(衝動や欲望への抵抗)し、坂道を登っていくことができる。
承認欲求は自然な欲望。では、他社からの欲望を受け取るために坂道を転がり続けるのか?転がる石のように自らを摩耗させ、カタチなきところまで丸みを帯びていくのか?そこでできた球体は「ほんとうのわたし」だといえるのか?
2025/2/5
141〜
「自由」とは他社から嫌われること。
あなたが誰かに嫌われるということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きているということのしるしなのです。
自由を行使したければ、コストが伴う。対人関係における自由のコストとは、他社から嫌われること。
自由とは「組織からの解放」ではない。そんなことではほんとうの自由は得られない。
だからといって「他社から嫌われること」を推奨していなくて、「嫌われることを恐れるな」といっている。
仮に、あなたのことをよく思わない人がいても、それはあなたの課題ではない。そしてまた、「自分のことを好きになるべきだ」「これだけ尽くしたのだから、好きにならないのはおかしい」と考えるのも、相手の課題に介入した見返り的な発想です。
対人関係のカードは「わたし」が握っている。
例えば関係がうまくいっていない相手との関係を修復しようと思うときに、相手のことを考えるのではなく、自らが関係修復の「決心」をする。その時に相手がどんな態度を取るか、関係はない。たとえ向こうに関係修復の意思がなくても、一向に構わない。自分が決心するかどうかであって、対人関係のカードは「わたし」が握っている。
ここで大事なのは「相手を変えるため」に変わるのではない。自分が変わったところで変わるのは「自分」だけ。その結果で相手がどうなるかわからないし、自分の関与できるところではない。
自分の変化に伴って、相手が変わることはある。
※自分の変化によって。ではない。
もちろん変わらない可能性もある。ともかく、他者を操作する手段として自分の言動を変えるのは、明らかに間違った発想になる。
2025/2/6
147〜157
他社とどのような関係を結ぶべきか、深いところを議論する。
結論だけをいうなら対人関係のゴールは「共同体感覚」
共同体感覚とは、他者を仲間と見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられること。
アドラーは共同体において、時間軸においては過去から未来、動植物や無生物まで含まれるとしている。
2025/2/7
157〜161
自己への執着から他者への関心に切り替えていく必要がある。
具体的に考えていくために自己への執着を「自己中心的」と置き換えて考える。
その中に「課題の分離」ができておらず、承認欲求に囚われている人もまた、きわめて自己中心的。
承認欲求とは、他社がどれだけ自分に注目し、自分の事をどう評価しているのか?つまり、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか?。。。
こうした承認欲求にとらわれている人は他者を見ているようで、実際は自分のことしか考えていない。
他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち自己中心的。
「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイル。
「わたし」に執着している人は全て自己中心的です。だからこそ「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えなければならない。
われわれは共同体の一員として、そこに所属している。共同体のなかに自分の居場所があると感じること「ここにいてもいいのだ」と感じられること、つまり所属感を持っていること、これは人間の基本的な欲求です。
たとえば、学業、仕事、交友、そして恋愛も結婚も、全ては「ここにいてもいいのだ」と思える場所や関係を探すことにつながっている。
しかし、「わたし」は世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです。
2025/2/10
161〜163
自分にしか関心を持たない人にとって他者は「私たちのために何かをしてくれる人」
しかし、その期待が毎回満たされるわけではありません。なぜなら「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」から。
期待が満たされなかったとき、彼らは大きく失望し、酷い屈辱を受けたと感じる。「あの人はわたしに何もしてくれなかった」「わたしの期待を裏切った」「あの人は仲間ではない、敵だったのだ」と。
自分が世界の中心にいる。という信念を持っている人は、遠からず「仲間」を失う結果になる。
冒頭に主観的な世界に生きている。という話が出たが、世界とは平面的なものではなく、地球儀的な感覚でかんがえる。
全ての場所が中心でありながら、すべての場所が中心ではない。見る人の場所は角度によって、無限の中心が点在する。
ではなぜ、「世界の中心ではない」と意識する必要があるのか?
アドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して自らが積極的にコミットすることによって得られるのだと考える。
具体的には、「人生のタスク」に立ち向かうこと。
仕事、交友、愛という対人関係のタスクを回避することなく、自ら足を踏み出していく。もしもあなたが、「世界の中心」なのだとしたら、あなたは共同体へのコミットなどつゆほどもかんがえないでしょう。
「わたしに何を与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人に何を与えられるのか?」を考えなければならない。
2025/2/12
163P〜
共同体の範囲は「無限大」。
しかし、共同体に所属する「所属感」は目に見える共同体の方が強い。例えば「会社」と「地球」を比べたとき、「わたしはこの会社の一員だ」という所属感の方が強い。対人関係の距離と深さが全く違うから。
でも、共同体への意識は複数かつ、より大きな共同体を意識していくべき。
その例として学校を共同体として絶対視していたとする。学校こそがすべてであり、学校があるからこそ「わたし」なのだ、それ以外はありえない。
しかしその共同体でも何らかのトラブルは発生する。
そのトラブルによって「ここにいてもいいんだ」という所属感を持てない可能性は大いにあり得る。
学校がすべてだと思っていると、所属感を持てない。そしてより小さな共同体、たとえば家庭の中に逃げ込み、そこに引きこもったり、場合によっては家庭内暴力に走る。そうすることでどうにか所属感を得ようとする。
しかし、ここで注目すべきは「もっと別の共同体があること」特に「もっと大きな共同体があること」
もし学校に居場所がないなら学校の「外部」に別の居場所を見つければいい。ひとたび世界の大きさを知って仕舞えば、自分が学校に感じていた苦しみが、「コップの中の風」出会ったことがわかる。
そこで覚えていてほしい行動原理がある。
対人関係の中で困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より」
2025/2/13
167〜173
今所属している環境における絶対権力者がいたとしても、所詮所属している環境でのみ通用する権力なので、それ以上のものではない。
「人間社会」という共同体で考えるならわたしもあなたも対等の「人間」です。
仮にわたしが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係は最初から結ぶ必要はない。関係が壊れることだけを恐れて生きるのは、他社のために生きる、不自由な生き方だから。
課題の分離から共同体感覚までの道のりについては?
「横の関係」という概念が大切。
教育ということを例にとって、「褒めて育てる」「叱って育てる」があるがどちらを選ぶべきか?
アドラー心理学の立場では、子育てをはじめとする他者とのコミニュケーション全般について「ほめてはいけない」という立場をとります。もちろん叱ってもいけない。
ほめるという行為には、「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれているから。
これは無意識のうちに上下関係をつくり他者を自分より低く見ているから。
人が他者を褒めるとき、その目的は「自分よりもの能力の劣る相手を操作する」こと。そこには感謝も尊敬も存在しません。
他者を褒めたり叱ったりするのは結局のところ背後にある目的は操作。
誰かに褒められたい。あるいは逆に他者を褒めてやろうとすること。これは対人関係全般を「横の関係」と捉えている証拠。
アドラー心理学では「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱している。
一例として会社員と専業主婦は、働いている場所や役割が違うだけで、まさに「同じではないけれど対等」なのです。
2025/2/14
173〜
そもそも劣等感とは縦の関係の中から生じてくる意識。
課題の分離について説明をするときに「介入」という話がある。※他社の課題に対して、土足で踏み込んでいくような行為のこと。
それではなぜ介入してしまうのか?その背後にあるのも実は縦の関係。相手を自分より低く見ているからこそ介入してしまう。自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいる。
目の前に苦しんでいる人がいても「ここで手を差し伸べるのは介入だから」と何もしないのか?
介入にならない「援助」をする必要がある。
援助とは大前提に課題の分離があり、横の関係がある。相手の課題を理解し、できることを考える。具体的には命令をするのではなく、本人が自信をもち、自らの力で課題に立ち向かっていけるよう話しかける。
こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼ぶ。
勇気づけとは結局誉めることではないのか?
それは違う。人は褒められることによって「自分に能力がない」という信念を形成していくから。
もしあなたが、褒めてもらうことに喜びを感じているとすれば、それは縦の関係に従属し、「自分には能力がない」と認めていることと同じ。誉めることは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」だから。
2025/2/17
176〜183
勇気づけのためには、感謝の言葉を伝える。これが横の関係に基づく勇気づけのアプローチとなる。
そして1番大切なのは他者を「評価」しないこと。
アドラーの見解は「人は、自分に価値があると思えた時にだけ、勇気を持てる」。
これは逆説的な考えをすると、何の役にもたたない老人や、赤ん坊は生きる資格がない。というふうにことができる?
他社のことを「行為」のレベルで見るのではなく、「存在」のレベルで見ることが大事。
2025/2/18
182〜
人は生きているだけで誰かの役に立っているし、生きているだけで自らの価値を実感できる。
でも、単純な仕事をやっている人は自分ではない誰かでも何の関係もなく、誰1人として「わたし」のことなど求めていない。そんな状態で自分に自信が持てるか?自分に価値があると実感できるか?
まずは他者との間に、ひとつでもいいから横の関係を築いていくこと。そこからスタートする。
2025/2/19
186〜198
人間は自らのライフスタイルを臨機応変に使い分けられるほど器用ではない。誰か1人でも縦の関係を築いていたら、自分でも気付かないうちに、あらゆる対人家系を「縦」で捉えている。
目上の人と親友のように振る舞いなさいと言っているのではない。意識の上で対等であること、そして主張すべきことは主張することが大切。
ありのままの自分を受け入れられるようにするにはどうすればいいか?
「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つが必要。
自己肯定とは、出来もしないのに「わたし」はできる「わたしは強い」と自らに暗示をかけること。
一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できないじぶん」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。自らに嘘をつくものではない。
100点満点の人はいない。誰しもが「向上したいと思う状況」にいる。
2025/2/20
198〜202
自己需要のために「肯定的なあきらめ」が必要
課題の分離でもそうだが、「変えられるもの」「変えられないもの」を見極める。
交換不能なものを受け入れること。そして変えられるのについては、変えていく「勇気」を持つこと。それが自己受容。
あきらめという言葉には「明らかに見る」という意味がある。物事に心理をしっかり見定めること。
悲観的なものではない。肯定的なあきらめとしての自己受容ができたからといって、共同体感覚が得られるわけではない。「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えて行くとき絶対に欠かすことができない第二のキーワード「他者信頼」になる。
「信じる」という言葉を「信用」と「信頼」に区別して考える。
信用とは条件付きの話。たとえば銀行でお金を借りようとした時、何かしらの担保が必要になる。その担保の価値に対して「これだけお貸ししましょう」となる。
これに対して、対人関係の基礎は「信用」ではなく「信頼」によって成立している。
信頼とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件つけないこと。
信頼の対義語は「懐疑」。自分が相手を疑っていることは、相手も瞬時に察知する。「この人はわたしのことを信頼していない」と、そこから何かしらの前向きな関係が築けるか?
われわれは無条件の信頼を置くからこそ、深い関係が築ける。
2025/2/21
202〜
裏切るか裏切らないかを決めるのは自分ではない。それは他者の課題。ただ、「わたしがどうするか」だけを考えればいい。
課題の分離ができるようになると人生は驚くほどシンプルさを取り戻す。もっとも課題の分離をrか=異界することは容易でも、実践することは難しい。
無条件の信頼を説いているのでなく、「無条件の信頼」とは対人関係を築いていくための「手段」である。
信頼することを恐れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことはできない。
「ここにいてもいいんだ」と思えるためには、他者を仲間だと見なす必要がある。そして他社のことを仲間だと見なすためには、自己受容と他者信頼の両方が必要になる。
他者を敵だと思っている人は、自己需要もできないし、他者信頼も不十分になる。
3つ目のキーワード「他者貢献」。
他者貢献が意味するところは、自己犠牲ではない。むしろアドラーは、他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを、「社会に過度に適応した人」であると警鐘を鳴らしている。
2025/2/25
206〜214
他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるもの。
他者がわたしに何をしてくれるかではなく、わたしが他者に何をできるかを考え、実践していきたい。
その貢献感さえ持てれば、目の前の現実はまったく違った色彩を帯びる。
物事の一部分だけを見て、全体を判断する生き方を「人生の調和」を欠いた生き方。という。
2025/2/26
214〜222
仕事とはお金を稼ぐことだけではない。そんなことを言っているのは人生のタスクから逃げている。会社の仕事だけしか考えない人は人生の調和を欠いた生き方。
そういう人は「行為のレベル」でしか自分の価値を認めることができない。
人は誰しも生産者の側でいられなくなる時がやってくる。その時「行為のレベル」でしか自分を受け入れられない人たちは深刻なダメージを受けることになる。
人間にとって最大の不幸は自分を好きになれないこと。すなわち「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくれる。
この場合の他者貢献とは、目に見える貢献でなくともかまわない。
本当に貢献できたかは原則的にはわかりえない。つまり他者貢献とは「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいい。
幸福とは「貢献感」である。
全ての人間は幸福になることができる。しかしこれは「全ての人間は幸福である」でないことは理解する必要がある。
貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」になってしまうと、結局は他者の望み通りの人生を歩まざるをえない。承認欲求を通じて得られた貢献感は自由がない。
もし、本当に貢献が持てているのなら、他社からの承認は必要ない。
2025/2/27
222〜228
他者の注目を集め、「普通」の状態から脱し、「特別な存在」になることを目的としている。
問題行動に走る子どもたちは、そうした健全な努力を回避したまま、他者の注目を集めようとしている。これを「安直な優越性の追求」と呼ぶ。
普通であることの勇気が必要。
普通であること、平凡であることは、本当に良くないことなのか。実は誰もが普通なのではないか。そこを突き詰めて考える必要がある。
普通を受け入れることは自己受容の重要な一歩となる。
普通を拒絶することは「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえている。普通であることは、無能なのではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などない。
2025/2/28
228〜239
人生とは、連続する刹那。「今、ここ」にしか生きることができない。
計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能。
キーネーシス的(動的)な人生とダンスを踊るような人生「エネルゲイア的(現実的活動的)な人生」の2つがある。
エネルゲイア的とは言い換えると「過程そのものを、結果とみなすような動き」と考えてもいい。
過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」には何の関係もないし、未来がどうあるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。
どう生きたのか、その刹那を見る。
2025/3/2
239〜
「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンス。真剣であることと、深刻であることを取り違えてはいけない。
エネルゲイア的な視点に立ったとき、人生はつねに完結している。
人生における最大の嘘とは?
それは「いま、ここ」を生きないこと。
決めるのは、昨日でも明日でもありません。「いま、ここ」です。
われわれは困難に見舞われた時にこそ前を見て、「これから何ができるのか?」を考えるべき。
「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。
あなたの人生に意味を与えられるのは、他ならぬあなただけなのだ。
「導きの星」はどこにあるのか?
他者貢献である。
あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、何をしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。
「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きましょう。
「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない。
-完-
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